御存鈴ヶ森 

=民俗学的歌舞伎鑑賞第67回
歌舞伎座・昼の部



【御存鈴ヶ森】こぞんじ・すずがもり
「お若えの、お待ちなせえやし」でお馴染みの「鈴ヶ森」は、「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」という、四世鶴屋南北が文政6年(1823)市村座に書き下ろした芝居の中の一部分が、今日残っているものです。この場だけが単独に上演されますが、まず幡随院長兵衛や権八小紫の巷説よく知っている昔の見物人には、それでも十分理解されていました。歌舞伎の様式美というものを見るのには恰好の芝居です。スジそのものは、権八という不良少年が大勢の雲助をいかにして殺傷するかということに過ぎないが、その殺し方、殺され方に工夫があると云っても過言ではありません。腕や足が切れたり、顔や鼻が削げたりする呑気な芝居と云えます。しかし、役者の側から云うと、度々上演されているので、技芸の高下がすぐに分かるので油断も隙もないものです。権八は音羽屋(菊五郎)の家の芸です。近頃では初代吉右衛門(1886-1954故勘三郎の兄)がセリフの上手い人だけに、いい気持ちにさせてくれたそうです。亡き尾上梅幸(1915-1995菊五郎の父)は文句なしに、権八役者の第一人者でした。今回は、人間国宝の二人、芝翫と富十郎による競演です。また、端役にも大物役者が並ぶという魅力もあります。


あらすじ

東海道品川の宿に近い鈴が森を通りかかった飛脚の早助(市川段四郎・澤瀉屋)を東海の勘助(市川左團次・高島屋)や北海の熊六(坂東彦三郎・音羽屋)らの雲助達が取り囲み、その身ぐるみを剥ぐ。すると、早助は勘助達の仲間にしてくれと申し出て、まもなく通りかかる、お尋ね者の因州・因幡(いんしゅう・いなば)生まれの白井権八(中村芝翫/成駒屋)を捕えたら、褒美の金は望み次第だと教える。また、飛脚早助の手紙から羽織の家紋は「井の字(丸に井桁)」であることも知るのだった。やがてここに、当の権八が現れると雲助達は打って掛かり、羽織の家紋から本人であることを確認、一同大きな獲物に沸きます。雲助達が打って掛かるので、やむなく権八が刀を抜き斬り捨てているところへ幡随院長兵衛(中村富十郎/天王寺屋)が通りかかり、その腕前に感嘆して身柄を引き受ける。そして、江戸での再会を約束して別れるのだった。
実際には出会ったことのない二人の出会いが、最初に劇化されたのは天明8年(1788)2月、中村座上演の「契情吾妻鑑」(初世桜田治助)とされ、同じ作者による「幡随長兵衛精進俎板」(第35話参照)で「鈴ヶ森」の原型が出来上がったと見られる。

《鈴ヶ森刑場》
二人の出会う鈴ケ森は、東海道品川宿の近くにある江戸の処刑場であった。幕府は、慶安4年(1651)罪人を処刑する刑場を江戸に入る街道口に置いた。浅草と品川鈴ヶ森の2ヵ所に刑場があり、浅草の刑場は千住村にあったことから後年「千住小塚原」となり、略して単に「コツ」と呼ばれた。刑場は明治14年(1881)に廃止となるまで利用された。刑場を通行人が多い街道沿いに配置したのは、犯罪の抑止力を狙ったからである。東海道はその名前の通り海岸沿いに京・大坂に通じていた。鈴ヶ森刑場は、松林が続く中に1本大きな松があったことから、「一本松の獄門場」あるいは「お仕置き場」とも呼ばれていた。
資料によると「年間死刑者は、小塚原と鈴ヶ森で1000人ずつ」と云うから、200年以上存続した刑死者の数は20万以上となる。死罪の方法としては、火あぶり・磔(はりつけ)・鋸(のこぎり)引き・獄門等があり、磔が一番多かった。獄門は死罪より重く、斬首された後3日間首を晒(さら)され後に捨てられた。鈴ヶ森は火炙りに適していた。海に面しているので風が強く、息が出来ず、より苦しむから。逆さ磔と云い、波打ち際に磔にし、満ちてくる潮に顔が浸かる刑があった。鈴ヶ森を象徴する小道具として「南無妙法蓮華経」と髭題目(法の字だけが楷書体なので'法を曲げない'の謂れとなった)と呼ばれる開祖日蓮流の文字が刻まれた石塔が置かれている。この石塔は題目塔と呼ばれ、元文6年(1741)に建てられたもので、高さは3.2mもある。現在刑場跡には大経寺という日蓮宗の寺が建っている。
鈴ヶ森刑場は、記録によると慶安4年(1651)の由井正雪事件の加担者の一人である丸橋忠弥が磔にされたのが始まりである。天和3年(1683)には八百屋お七(第41話)、以後白木屋お駒(第5話)、鼠小僧次郎吉等、芝居で著名な者達が処刑されている。東京都の史跡として現在も残されているが、管理している大経寺の住職によると、道路の補修工事で、今でも地中に埋まっていた骨が掘り返されることがあるので、拾ってきて供養しているとのことである。

《平井権八》
白井権八のモデル。因州・鳥取藩主池田光仲の家臣平井正左衛門(六百石)の長男で、寛文12年(1672)秋、父の同僚を殺傷したため、国許を脱走して江戸に行き放浪生活を始めた。原因は犬の喧嘩からと云われている。ある時、城中で父正右衛門が同僚に「畜類などを鍾愛(しょうあい/大切にしてかわいがること)するのはよろしくない」と語ったことを聞いた助太夫は、自分の犬好きを暗に悪口したと思い立腹。そこで自分の犬をけしかけて正右衛門の犬と喧嘩させると、正右衛門の犬が負けて尾を尻の間に挟んで逃げてしまった。助太夫は「犬猫などは飼い主に似る」と高言したが、還暦を過ぎて世間の苦楽を知っている正右衛門は事を荒立てず、「拙宅の犬は手許不如意のため、飼料も不十分であるし、かつは老年頽齢の拙者のことなれば、犬も勇気が失せるでござろう」と云い、退出の時刻になったからと他の同僚を促して帰宅した。この話を友達から聞いた権八は、助太夫の家に押し掛け、一刀の下(もと)に助太夫を仆(たお)したと云われている。
江戸に下ってからは、容色優れ加賀節(加賀国から出た遊女・加賀女(かがめ))が都で歌いはやらせたもの)を美声で歌い、浅草日本堤で通行人から金銭を奪っては吉原遊郭へ通い、三浦屋の花魁・小紫との深い仲となる。小紫との遊興費を手にいれる為、辻斬り130名余に及んだ。ある時、目黒不動そばの普化宗(ふけしゅう/尺八をふきながら旅をする)東昌寺の住僧随川にかくまわれ、尺八を習い改心。両親に一目会いたいと虚無僧となって郷里に帰ったが、両親はすでに他界していたため、観念して江戸に戻り自首。品川で磔刑となり鈴ヶ森刑場に晒されたと云われている。ただ、その侠気ある行動が喜ばれ、歌舞伎狂言にも脚色され、白井権八の名でも知られている。権八を思って吉原から逃げてきた小紫は、東昌寺にある権八の墓前で自害する。(東昌寺へ行き着く前に果てたとも云われる)。現在、目黒不動仁王門前の東昌寺跡に権八と後追い自殺した小紫が眠る比翼塚がある。また、鳥取市湯常呂町には平井権八屋敷跡が残っているし、市内の円通寺に伝わる人形芝居には平井権八が登場する。

家紋は丸に井の字(井桁)、この家紋は白井、平井、井上姓が使うもの、作者も家紋まで考えての作品とは恐れ入る。

 


無駄話@「雉子も鳴かずば射たれまい」は長柄橋人柱伝説に由来する
白井権八が鈴ヶ森で雲助に襲われ、切り捨てたことを長兵衛に『雉子も鳴かずば射たれまいに・・』と云う名セリフがあるが、これは古歌の『物言へば父は長柄の人柱、雉子も鳴かずば射られざらまし』という古歌伝説によるものだ。
大阪市内を流れる新淀川には、長柄橋(ながらばし)という大きな鉄橋がかかっている。もとは木橋で、度々流出したものである。飛鳥時代推古天皇の御代、攝津國長柄江は長柄の浜とも云って濁水漲る大難所であった。幾度架け替えても橋が流出するので、このうえは人柱を立てて、流れるのを防ぐより方法はないということになり、その人柱を誰にするかでもめた時、岩氏(いはうじ)長者は「ハカマにつぎを当てている人がよい」と云ったのでそれに決し、皆のハカマが調べられた。が、誰のハカマにもつぎは当たっていない、最後に岩氏長者のハカマを調べると、内側につぎ布が当たっていたのである。岩氏長者は人柱にされ、完成した長柄橋は流失をまぬがれた。
長者には美しい一人の娘がいたが、生来の唖者で話ができなかった。河内の男が、この娘を見染めてその母から妻に貰いうけたものの、物を言わないので嫌になった。女を里に返えそうとして連れ立って雉子畷(きじなはて)というところまで来たとき、雉子が鳴いて飛び立った。男は即座に弓に矢をつがえて放ち、雉子を射落とした。これを見た女は朗々と歌を詠んだのである。『もの云わじ父は長柄人柱 鳴かずば雉子も射られざらまし』。物が云えなかった女が物を云ったのである。男は喜んで自分の家へ連れて戻った。
似たような伝説が幾つかある。「長柄郷土史」では、娘は父が人柱になってから口を利かなくなったとある。この伝説から、無用な発言をしたばかりに、自ら災いを招く意の『雉子も鳴かずば打たれまい』という諺を生じたのである。

無駄話A処刑された人の内臓は薬として売り出された
刑場で処刑された後の死体は、武士は埋葬を許されたが他は野ざらし状態だった。死体は野犬やカラスが貪(むさぼ)り食った。杉田玄白は小塚原で処刑された女性の解剖を行い解体新書の翻訳をし、首切り役人の山田浅右衛門は、結核に効く秘薬《浅山丸》を販売した。実は刑死した罪人の肝から作ったものだった。現在でも、流産で出た胎児の死体は薬に変わっていると云うから、本当なら恐ろしい。

(2008年3月その2)







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