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【松竹梅湯島掛額】しょうちくばいゆしまのかけがく
江戸駒込片町(本郷追分など)の有名な八百屋の娘お七と、円乗寺(吉祥院説は誤り)の寺小姓生田左兵衛(吉三郎は芝居上)との悲恋は様々に脚色され上演されましたが、この演目の「吉祥院お土砂(どしゃ)の場」は二人の恋物語に加え、紅屋長兵衛・通称紅長(べにちょう)が面白おかしく活躍する歌舞伎には珍しい笑劇です。
お七は吉三郎にぞっこんですが、お七を愛妾にしようとする悪者がいて、吉祥院に匿われています。お七の恋心を知って、紅長が一肌脱ぐことになります。これをかけられると体がグニャグニャになってしまうという不思議な粉「お土砂」が大きな笑いを生み出します。
続いての「火の見櫓」の場は吉三郎の窮地を救うため、お七が禁を犯して火見櫓に登りの太鼓(半鐘)を打つ、「櫓のお七」として知られた場面です。一途なお七の激情を文楽の人形のように動く「人形ぶり」が演じられます。お七が放火の代わりに櫓の太鼓(半鐘)を打つ演技が芝居に登場したのは、1766年市村座の「八百屋お七恋江戸染」からです。
おどけた紅長に中村吉右衛門(播磨屋)が扮し場内の爆笑を誘います。吉三郎に市川染五郎(高麗屋)、お七に市川亀治郎(澤瀉屋)が挑みます。そして高利貸し・釜屋武兵衛に中村歌六(萬屋)、若党十内に中村歌昇(萬屋)、長沼六郎に中村信二郎(萬屋)、そしてお七の母おたけに中村芝雀(京屋)という豪華な配役です。ただ、残念な事には、お七役の亀治郎さん、喉が悪いのか声が上ずって甲高い声で、聞きにくかったのには期待外れでした。
「湯島掛額」は文化6年(1809)に初演された福森久助作『其往昔恋江戸染』(そのむかしこいのえどぞめ)の「吉祥院の場」と安政3年(1856)に初演された河竹黙阿弥作『松竹梅雪曙』(しょうちくばいゆきのあけぼの)の「火見櫓の場」を繋ぎ合せた作品です。「松竹梅」とはお七が11才の時(延宝6年(1678))奉納した額の文字のことで、それにより、16才ということが確認され、当時の成年の年と云うことで火刑になった証拠の品です。
当時の江戸の町は、「火事と喧嘩は江戸の華」と云われる位火事が多かったので、劇場で火事を題材にするのは不謹慎と考え、更に、幼いお七を哀れんだ作者が火の見櫓の太鼓(鐘)を打つ事で大罪になる話に変えたものです。松竹系の劇場の看板やパンフレットには5月1日(月)初日→25日(木)千穐楽と書いてあります。千秋楽の「秋」の字がのぎへんに火でなく、亀になっています。これは芝居小屋が火事にならない様、縁起を担いだ名残であります。興行が火曜日までの場合には(火)となりますが、江戸時代に曜日は無かったのです。
初めにお断りして置きますと、このお芝居は「あらすじ」など、どうでもいい笑いに徹したお芝居です。従って、時代錯誤も沢山ありますので御承知おき下さい。
鎌倉時代のここは本郷駒込の吉祥院、本堂に左甚五郎作の天女が彫られた欄間のある名高いお寺です。折から、中仙道板橋の宿にまで木曽の軍勢が攻めて来たので、若い娘達がこの寺に避難して来ています。そこへ皆から紅長(べにちょう)とあだ名で親しまれている人気者の紅谷長兵衛や八百屋「八百久」の一人娘・お七とその母おたけ、下女のお杉もやって来ます。お七は前々からこの寺小姓・吉三郎に思いを寄せていたので、「吉三郎と夫婦にしてほしい」と母おたけに頼み込みます。けれど母は「吉三郎はやがて出家する身であること、そして、実はお店が立ち行かなくなったので、金貸しの釜屋武兵衛から200両の大金を借りてしまい返せないので、お前(お七)と武兵衛を夫婦にしなければならなくなった」、と云い聞かせます。そこへ吉三郎の若党の十内がやって来て、「吉三郎は帰参が叶い、許嫁と結婚して家督を継ぐことになった」と話します。
実は吉三郎は元は侍で、お家の重宝「天国(あまくに)」と云う名刀を紛失した為に家を勘当され、刀の行方を探している身でした。決められた日までに取り戻さなければ、切腹しなければなりません。嘆くお七をなだめすかし、娘の為にと十内に吉三郎との間を取り持ってくれる様頼みますが、身分違いだと断られます。
そこへ軍勢の攻め寄せる太鼓の音、釜屋武兵衛と源範頼(みなもと・のりより=頼朝の異母弟、非常に乱暴だった)の家臣・長沼六郎らがやって来ます。お七が寺の欄間の彫刻の天女に似た美しい娘だと云う事を聞きつけ、範頼が愛妾にしようとして、家来を差し向けたのです。住職達は「お七は居ない」とごまかしますが、また何時やって来るか分かりません。これを聞いた紅長はお七に欄間の天女になり済まして、身を隠すよう勧めます。
騒ぎを聞きつけてやって来た吉三郎に、お七は欄間から降りて吉三郎に思いを打ち明けます。この様子を見ていた紅長は、お七に病気のふりをしろと悪知恵を付けます。急に苦しみだしたお七を介抱するうちに、二人の仲は急接近します。
一方、「お七や母親は死んだ」と聞かされても納得しない六郎達が、本堂に運ばれてきた早桶(座棺)をひっくり返すと、中から紅長が出てきて殴りかかります。怒った武兵衛が見つけたのは「お土砂」、死後硬直した人に掛けると軟らかくなるという砂です。しかし、紅長は武兵衛からこれを奪って、次々に現れた人に「お土砂」を掛けまくるので、大騒ぎになりました。この隙にお七は吉三郎に心を残しながら、母お杉と家に帰って行きました。
それから暫らく経った雪の降る夜のこと、お七の家に釜屋武兵衛が「天国の刀」を持ってやって来ます。今宵に迫った吉三郎の切腹を救いたいお七に、下女のお杉は、「天国の刀」を盗み出して吉三郎に届けるように伝えます。駒込の木戸までやって来たお七とお杉。だが掟によって木戸は閉ざされています。お杉は「火見櫓の太鼓を打ち鳴らせば、木戸という木戸が開く」ということを思い出しますが、みだりに打てば火刑(火あぶり)になります。吉三郎に逢いたい一心のお七は、お杉が家に引き返した隙に、雪の降る中、火見櫓に駆け上がり太鼓(鐘)を打ってしまいます。ここが本日一番の見所、火見櫓に登るまでが文楽の人形の様に見せる「人形振り」です。文楽の人形遣いが二人登場し、お七を操ります。火の見櫓に登ってからは、お馴染みの紅と浅葱(あさぎ)の染分(そめわけ)段柄地に鹿子絞(かのこしぼり)で麻葉繋(あさのはつなぎ)をあしらった黒衿掛の振袖姿にかわります。これは岩井半四郎が演じたお七役の着付が始まりだそうです。
そこへ下女お杉が、武兵衛から奪った「天国の刀」を抱えて戻って来たので、お七は「天国の名刀」を手に、死を覚悟で、木戸の開いた雪の町を吉三郎の待つ吉祥院へと走り去って行くのでした。
《八百屋お七》
八百屋お七(1668-1683)は、江戸時代前期江戸駒込(本郷追分など)の加賀藩出入りの八百屋・太郎兵衛の娘で、恋慕の挙句に放火未遂事件を起した。生年は1666年とする説があり、それが、丙午の迷信を広げる事となった。お七は1682年暮れの天和の大火で焼け出され、菩提寺の円乗寺に避難した際に、そこの寺小姓生田佐兵衛(庄之助、吉三郎とする説も)と恋仲になる。翌年正月新しい家にお七一家は戻るが、寺小姓の事が忘れられず、火事になればまた会えると思い込込み、自宅に放火し、捕らえられて大森鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられた。その時お七はまだ数えで16才になったばかりだったので、奉行が哀れみ、15才だろうと聞いた。15才以下なら罪を減じられ死刑にはならないのだが、彼女は正直に16才であると主張し、お宮参りの記録を証拠とし、「松竹梅」の額を差し出した。これが、外題「松竹梅湯島掛額」になっている。火刑に処せられた3年後の1686年、江戸庶民の同情をかい、井原西鶴がこの事件を「好色五人女」の巻四に取り上げてから有名になり、浄瑠璃・歌舞伎の題材となった。
「お七」の名の由来は、母親が子供が出来なかったので、日蓮宗(法華経)の総本山身延山・七面山、七面大明神(七面天女=吉祥天の応化)が祀ってある七面坂の延命寺七面堂に願を掛けて生まれたので、「お七」と名付けたと云う。
七面とは方角を表わすのに八方向あるが、仏法ではそのうち丑虎(北東)の方角は鬼門とされた所から、一面取って七面としたことに由来する。
また、日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」の七文字から「七」を取ったとも云われる。
《土砂加持(どしゃかじ)法要》
土砂加持法要とは、真言宗の秘法で光明真言を唱え、土砂壺に納められた清浄な土砂を加持(祈祷と同じ意味)する法要です。土や砂は何処にでもあるつまらないもの、汚いものという感覚かも知れませんが、土砂は一切の物を生み育てる大きな命をもち、真言宗の教理の根本にある六大(地・水・火・風・空・識、大日如来の象徴=六界)の一つ、地大(じだい=仏語。すべての堅い性質をもち、保持作用をするもの)にあたる大切なものです。この土砂を屍・墓・塔その他あらゆるものの上に散ずれば、その亡者が地獄・餓鬼・畜生・修羅にあって苦しんでいても、加持された土砂の功力によって光明を得て、地獄におちている亡者も極楽に往生すると云われています。このお芝居では、光明真言の効力で身体が軟らかくなると云われている事から、亡者に扮した紅長が「お土砂」を掛けてまわると、掛けられた人達がグニャグニャと腰砕けになってしまいます。
物語では吉祥院ですから、吉祥天=日蓮宗のお寺です。ここに真言宗の「お土砂」が置いてあるというナンセンス喜劇でもあります。
無駄話@ボヤで身を焼く八百屋お七
東京消防庁のホームページによれば、「お七火事」と云われるものには、天和(てんな)2年(1682)1月27日の火事と同年12月28日及び天和3年3月2日の火事(「天和笑委集」)説があり、現在のところはっきりはしていませんが、天和2年1月の火事が「お七火事」であり、12月の火事の時にはお七は、伝馬町の牢に繋がれていたとしています。
恋は盲目の例え通り、ならず者の吉三郎の口車に乗せられたお七は、寺小姓恋しさ故に、自分の家に火をつけ円乗寺へと駆け出したのである。吉三郎は湯灌場買(ゆかんばかい)の吉三といって、葬式の死装束を寺から買い出すことを業とする賤民でした。この放火が江戸の中心部を総なめにする大火の元となったという説もありますが、実際は近所の人が消し止めて、ボヤで済んだと云うのが事実のようです。しかし当時は、「失火者斬罪令(ざんざいれい=打ち首令)」(延宝6年)があった時代です。ましてや放火犯人は市中引き回しの上、死罪とされていましたので、お七は天和3年3月29日鈴ヶ森で火あぶりの刑に処せられました。ならず者の吉三郎は、火事場泥棒を決め込んでいた所を捕らえられ、教唆犯としてお七と同じ刑に処せられたそうです。
一方、お七の恋の相手の左兵衛は、このことを知って自害しようとしましたが果たせず、以後は剃髪して高野山や比叡山を巡り修行に努め、やがて目黒に戻って西運堂を建立し、名も西運(さいうん)と改めて一代の名僧とまでなりました。現在の目黒雅叙園が、かっての明王院というお寺であり、西運がお七の菩提を弔うため「お七地蔵尊」を造った場所ですが、現在は廃寺になり目黒の大円寺に阿弥陀堂と共に移されています。
無駄話A「振袖火事」とは
明暦3年(1657)年正月、江戸本郷の本妙寺から出火、江戸城および江戸市街の大半を焼失した大火事。施餓鬼(せがき)に焼いた振袖が火元と云われる。施餓鬼とは盂蘭盆(うらぼん)に寺などで、餓鬼道に落ちて飢餓に苦しむ無縁仏や生類のために催す読経のことです。この時お七はまだ生まれておりません。お七が振袖を着て人形振りをするので、お七火事と振袖火事を混同している様です。死者10万余、焼失町数800町と云われ、本所(両国)回向院(えこういん)はその死者の霊を祀った寺です。
無駄話Bあきれた官学者室鳩巣(むろ・きゅうそう)の献言
前作40話の無駄話「千川徳兵衛」にも書きましたが、明暦の大火後、玉川上水から青山、三田、千川の三上水も水需要を支える為に分水されたが、享保7年(1722)突然廃止されてしまった。理由は儒学者、室鳩巣(むろ・きゅうそう・1658-1734)の献言によるものである。即ち、「江戸の風は明暦の頃まで重々しかったが、地中に水道管が張り巡らされ地脈が切断された昨今、風が軽くなって火災を誘発している。火災予防の為には水道を廃止すべし」と云う説である。これによって、三上水の給水は中断されるのである。科学が未発達だった時代、吉宗の側近として享保の改革を補佐した官学者ではあったが、今考えれば「お粗末」としか云い様がない。
無駄話C来年のNHK大河ドラマにお七役の亀治郎さんが武田信玄役で登場
この芝居で可憐な娘役お七を演じている市川亀治郎さんが、来年のNHK大河ドラマ「風林火山」で武田信玄役に決まったと3月31日に発表がありました。テレビドラマ初出演の亀次郎さんは「新しい信玄像をつくりたい」と話しています。若女形の役が多い亀治郎さん、大丈夫ですか。お父さんは市川猿之助の弟、市川段四郎です。
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